藍くんって、サプライズとか好きだよね、びっくりするけど、嬉しい。
そうやってはにかみながら喜んでいた姿が、頭の中に暖かい記憶となって浮かんで、指先に温度が伝わっていくような気がした。
休みの日が被っても、お互いの予定がすれ違ってなかなか会えない日が続いていた。日用品の買い出しがてらふらりと立ち寄ったデパートの中、ジュエリーショップで見つけた細身のブレスレットが、あの子の白い手首で輝いていたら、いいなあ。そう思ったら買っていた。お包みしますか?と店員さんに聞かれて、青いリボンと赤いリボン、どちらにするか3秒ほど悩む。青いリボンの方が好きかな。学年が5つ下の彼女は、俺より頭が良くてしっかりしている。なんとなく青を好みそうだったし、子供の頃の俺は、熱血レッドの真似をしながら賢いブルーに憧れていた気がするし、青い方で、と返答した。
付き合いはじめて間もない訳でなく、だからと言って関係が熟すほどでもない。世間ではこの期間を倦怠期と呼ぶのだろうか、なんて。弱気になりながら雨上がりの夜道を歩いていた。日が落ちると冷たい風が吹くこの頃にして、ハーフパンツは早かったかなと思いながら少し身を震わせた。最近全然会えてなかったし、こうも冷えているから弱気になるんだ、そう思い直して歩みを進める。
夕飯時を少しすぎたくらいの金曜日、この時間なら彼女は帰宅しているはずだ。仕事が忙しくて疲れているの。明日も予定があって、ごめんね、とメッセージが入っていた。土日休みの彼女とたまたま金曜日公休の俺。久しぶりに会えるかと思ったけど、仕事で疲れていると言われてしまえばそれ以上のワガママは言えなかった。それでも、ご飯をしっかりとれてるか心配だし、ちょっとでも顔を見れたら俺も嬉しいし、サプライズで会えてプレゼントもあったらきっと、あの子も仕事の疲れが吹っ飛んじゃうくらい喜んでくれたら、いいなあ。あの角を曲がれば、彼女の家はすぐだった。
アパートに響かないように一歩ずつ階段を上がって、家の前に立つ。ドアの小さなガラス窓から微かな光が漏れていた。ああ、ちゃんと帰ってた、とひと安心して呼び鈴のボタンに指を向ける。カタン、カタン、一定のリズムで何かが揺れる音が耳に入る。……何の音だろう?誰かいるのか、友達と宅飲みだったら教えてくれたっていいのに、まあ言われたら言われたでちょっとやきもち妬いちゃうかもしれないケド。でもまあ、友達が多い子だから、彼氏よりも友達とゆっくり酒飲みたい時もあるよね。俺って理解ある彼氏!差し入れにアイスでも買ってくればよかった。そんなことを考えて、頭の中を思考でいっぱいにする。呼び鈴を押す。ピンポーンと軽快な電子音が響いて、少し待ってみるも、出てくる気配はなく居留守をしようとしている気配を感じる。
「こんばんはー、サプライズの藍くんだよー」
扉の向こうへ声をかけると忙しなく動く音がした、なんだうたた寝してたのかな?ちょっとだけいたずら心が湧いて、返しそびれていた合鍵で扉を開けた。パーカーのポケットに入れている、青いリボンが掛かった小さな箱を指先で確かめて、一歩踏み入れた。
「疲れてるって言ってたからさ、元気してっかなーって、来ちゃった、」
言いながら土間から視線を上げた。少し乱れた長い髪と、部屋着のいつものカーディガンを裸に羽織っただけ姿で、彼女が目の前に立つ。
「ちょ、ちょっと待って藍くん!」
あられもない姿のままひどく動揺する様を見て、腹の底から怒りの感情がぐつぐつと煮立っていく。人の女に、何してんだよ。履いていたサンダルを雑に脱いで、衝動のまま奥に進もうとする俺を止めようと、彼女が腕を掴みかけるが軽く躱して部屋へ入った。近づくにつれ湿度の高い性の香りが入り込んできて思わず息を詰める。ベッドの上に座る男を一瞥した。
「は……? 志摩、なんで……」
志摩だった。一発殴ってやらないと気が済まないと強く握った拳は、虚しく力を失って垂れ下がった。志摩はダルそうに俺を見てため息をひとつ、傍に掛かっていたTシャツにのっそりと手を伸ばす。
「ち、違うの! これは……!」
必死に取り繕うとする彼女の言葉が何一つ入ってこない。無理だろ、ここから俺が「そっかあ、浮気じゃないかあ」と言うのは、いくら俺でも。裏切った彼女に向ければいいのか、相棒の女に手を出した志摩に向ければいいのか、分からなくなってしまった怒りは、急激に冷めてどこか他人事に思える。なんで青いリボンの方が似合うと思い至ったのか、修羅場のど真ん中で腑に落ちた。そうか、バカな俺よりも、みんな賢いブルーに憧れてしまうんだ。
この場でいちばんいらないのって、俺だ。
「あーごめん邪魔して、急に来て……俺が悪いのか」
思ったことを口にした途端、悲しい気持ちに全身が支配される。目頭がカッと熱くなって家から飛び出した。上機嫌に帰路を歩く人の間を縫うように、止まることなく駆け抜ける。いい年した大人がぐしゃぐしゃに泣きながら走ってるんだから、ぎょっとされるかな、と頭の片隅で思うも、街灯が青白く灯すだけで案外気付かれることはなかった。汗と一緒に涙も止まらない。
翌朝、目が覚めてすぐ、目の周りが熱くてヒリヒリと痛い。その不快感が全ての記憶と感情を呼び起こした。どんなに悲しくたって、朝はやってくるし、仕事も無くなったりしない。まとわりつく涙の匂いが嫌でシャワーを浴びる。
この手の傷心には、これまた悲しいことに、慣れているつもりだった。大体の場合、フラれるのは俺の方。優しすぎるとか、軽そうなのに重いとか、なかなかひどい事まで言われたこともある。加えて最近に至っては、本当は好きじゃないでしょ、他に好きな人ができたから、じゃあどうしろって言うんだよという理由で別れを告げられている。俺なりに真っ直ぐに愛情を伝えてるつもりなのに、どうしてもっとスマートにできないんだろう。そこまで考えて、どうしても頭の片隅に志摩の顔が散らつく。こんなとき志摩だったらどうするだろう、そう考えてしまうのは、日々俺に染みついてしまった癖だった。慣れたはずの傷心も、この癖のせいで家に帰ってきてもずっと、巻き戻しを繰り返している。頭の上からシャワーを浴びながら、水流と一緒にこの怠くて重い心臓のもやもやも流れていけばいいのにと、つま先をぼおっと眺めながら思った。
髪を拭うのもそこそこに、冷蔵庫から取り出した水のペットボトルで目の周りを冷やしてみる。さっきよりはマシか?と鏡を見る。いつもよりも腫れぼったくてますます目つきが悪い。それなのに目の周りはまだ赤みが引かなくて、明らかに泣き腫らしました、という可哀想な顔だった。ちぐはぐな人相にハァ、とため息が漏れ出る……こんなんじゃ勤務中に職質されちゃうよ。今日は曇りだけど、色が濃いサングラスで誤魔化すしかないか。何となく食欲もないけど、作ってあった茹で卵に塩を振ってかじる。昨日出て行った分の塩分補給だ。
ひとり家でジッとしていても、うじうじと考えてしまいそうだったから、もういっそのこと早く出勤することにした。分駐所に着くと当番終わりの隊員がそれぞれ作業しているだけで、どうせこの後24時間ほぼずっと一緒なのに、志摩の姿がないことにホッとする。早く就いても相棒が揃わないと出来ることも少ない。目の腫れに気付かれて何かと質問されても困るし、ジッとしていることもできなくて、出動の準備をひとりでパッパと済ませて駐車場で待つことにした。室内よりも地下の冷たい空気を吸ってる方がマシだった。ていうか、なんで俺がこんなに志摩の影にいちいちビクビクしなきゃなんねーんだろ、と思えるくらいには頭が冴えてきていた。志摩のせいで目が開きにくいし、志摩のせいで曇りなのに色の濃いサングラスを掛けなきゃいけないし、せっかく三機捜ヘルプで緑の多い西武蔵野署管内の当番、紫陽花が見頃の道を運転できると思ったのに、こんなんじゃろくに運転もできない。助手席側に体育座りして志摩を待った。
「早かったな、おはよう」
「……はよ」
いつも通りの服、いつも通りの髪、何もなかった顔で志摩が挨拶をしてくる。どんな事情があれど挨拶を無視するのはポリシーに反するので、ぶっきらぼうに返した。志摩が車のロックを解除しながら「運転どっちが、」と聞きかけるのは無視して、助手席に乗り込む。無線のスイッチを入れ準備をする隣で志摩がファイルに目を通している、チラリと横目で顔を覗かれて、目が赤く腫れてるのにおそらく気付かれた。そのことに対して何か言われるかと思ったが、無視。ああそうかよ、無視には無視ってワケね。
「機捜404から三機捜本部——……」
本部から了解、と返答があって志摩が車を発進させた。薄曇りで影がない分、むしろ外が眩しく感じられて、サングラス越しに瞳孔がギュッと縮まるのを感じた。目が疲れているのか、それすらもなんか痛い。土曜日の朝、まだ目覚めない静かな街を進む。主に俺のせいだけど、車内にも重たい空気が漂って小粋な雑談をしようと言う気にはならない。西武蔵野署管内に入ってすぐ、コンビニに志摩が車を停めて「すぐ戻る」と言って降りた。休憩にしては早すぎると思いながら待つと、よく冷えたペットボトルの水を投げられる。
「それ、宛てとけば、見づらいだろ」
そういうのがいちばん腹立つんだよ、とは言い返すことができず。何も言わないままサングラスを取って目元に宛てがった。まだ少し熱を持っていた瞼が冷やされて気持ちがいいのに、志摩に対するイライラは募っていくばかりだった。右手で内ポケットの小銭入れから百円玉を2枚取って、運転している志摩のジャケットのポケットに素早く突っ込んだ。「あっぶねえな!」と怒られるが無視、とにかく無視。おごってもらうんじゃ俺のプライドが許さなかった。こういう時に限って、なかなか無線は鳴らないし人通りすらあまりない。車内に沈黙と苛立ちが積み重なっていく。
「……知ってたよな」
「何を?」
「とぼけんな」
「……まあ、お前から聞いてたな」
「じゃあなんでだよ」
彼女が出来てすぐ志摩に報告して、予定が合えば紹介していた、毎回そうだった。変な感覚かもしれないけれど、まず俺を知るには志摩を知って欲しいし、そして志摩には俺が嬉しいことは全部言いたいと思っていた。志摩だって良かったなと笑って喜んでくれていたはずだった。事情を知らない偶然の相手とは言わせられない。
「あの子が、もう別れたもう何もないって、誘われたから」
「ハア?」
「俺も溜まってたし、これっきりならまあいいかって、流れで」
「、んだよそれ……」
「別れたばっかりで寂しい、だとさ」
志摩はさもここに嘘はありませんと言いたげに淡々と語った。志摩が言われたという言葉に間違いがなかったとして、そんなの嘘だ。昨日の夜だって、今日は会えないとメッセージがあっただけで、終わりにしよう別れたいだとか、そんな言葉すら聞いてなかった。すぐに紹介だってするし、別れた時だって真っ先に志摩に泣きついてた。そんなの、嘘に違いなかった。
「……志摩はそれ、信じたワケ?」
俺が喉から言葉を絞り出すのと対照に、鼻から息を吐くように笑って、滑らかに言葉を紡いだ。
「信じるも何もそう言うんだからなぁ」
「それがホントだったとして、相棒の元カノ抱くかよ……」
志摩は何も言わない。つまらなそうな顔で、ハンドルを切って左折した。志摩が考えていることなんて、業務外のプライベートなことだって、大抵のことはわかってると、俺は思い上がっていたのかもしれない。ただの相棒じゃない、仕事上の仲間を超えた大事な人だと、確かに思っていたのに、今はもう何を考えているのかわからなかった。
「お前、ちょっとフツーじゃねぇよ」
「……ふ、ははっ」
「ア? テメェ何笑ってんだよ喧嘩売ってんのか?」
思わずこぼれたような挑発的な笑みにさらに苛立ちが隠せなくなっていく。嘘吐かれて無様に振られた俺がそんなに面白いかよ。
「伊吹さぁ!」
声を荒げようとする俺に被せるように志摩が言う。
「付き合う女、ちゃんと選べよ、良かったろ? あの女の本性知れて」
お前がそれ言うのかよ。
「……ざっけんな、俺は真剣に……!」
「あの女、思ってたのと違った、もう別れた、ホントは俺が好きなのって言ってたぞ」
動揺を隠しきれない俺に、志摩が追い討ちのように言葉をぶつける。多分、志摩が言っていることが真実だ。志摩は人を揶揄うためだけにこんなことをするヤツではないと、野生の勘が告げている。それでも、傷ついたしょうもないプライドがざわざわと暴れている。
「オイ車停めろ、一発殴らせろよ」
——警視庁から各局、西武蔵野署管内……
「……機捜404、……」
最大級の不機嫌を隠すこともできず、無線を取ったことは心から謝った、心の中で。そのあとは入電が続いて、不機嫌でいる暇もなかった。今の俺にはありがたいことだった。
仮眠に入る休憩中、個人スマホに連絡が入っていた。お仕事終わったら話がしたい、家に来て欲しい、最後のおねがい。……あんな場面を見てしまった後だ、もう会わない今までありがとうさようなら。そう返信して終わりにすればいいのに、最後のおねがいというワードに引っ張られてしまう俺がいた。そりゃ、あんな別れ方では後味が悪い。振られたとしても、最後くらい、どうか幸せになれよと願いたくなってしまう俺は、甘いのだろうか。夜からでよければ、と返信した。退勤してすぐお疲れ様の挨拶もそこそこに、志摩の何か言いたげな目線に気付かないふりをして分駐所を出た。
ここまでくると、怒りの感情は不思議ともう湧いてこない。彼女が俺に飽きていたことも事実で、志摩に嘘を吐いてまで関係を求めたのも事実だろう。これ以上惨めな気持ちにさせないでくれと思いながらも、俺の足はあの記憶がこびり付くアパートに、律儀にも向かっていた。
肺に詰まった空気が鉛のようだ。いくら息を吐いても軽くなることはなく、これで最後だからと自分を励ましながら呼び鈴を押した。すぐに泣き終わった顔で部屋に迎え入れられる。なんでそっちが泣けるんだよ、と思いながらも平常心を保って一瞥した。涙が残る鼻声、明るく出そうと意識した声色で「お茶飲む?」と言われる。「いや、すぐ帰るから」と返すと少しショックを受けたように、おずおずとベッドに彼女が腰掛けた。それに倣って二人掛けの小さめのソファーに腰を下ろす。なるべく威圧しないように、優しく声をかけた。
「それで、話って、何?」
「あのね、藍くん、私……ごめんなさい、気の迷いだったの……!」
「……え?」
「藍くんって、その……無邪気だから、志摩さんはすごく大人で……紹介してもらったとき、ちょっと良いなって思ってしまったのは確かで、魔が差してしまって……本当に好きなのは藍くんだけ」
何を言ってるんだ?本当に好きなのであれば、大事な相棒だと紹介した相手と寝るなんて、出来るわけがないだろ。
「ハ、違うでしょ、思ってたのと違ったんだろ……? 本当は志摩のことが好きなんだろ?」
「ち、違うの、つい言い訳しちゃっただけ! だって、アイツ酷いんだよ! 捜査一課の優秀な刑事だったって教えてくれたけど、ちょっと頭が良くて経歴が良いからって調子乗ってんじゃない? だからもう良い部署じゃないんでしょ、人のこと見下して……最後、何て言ったと思う? もう二度とアイツと俺の前に現れんなって……すっごく怖かった! 藍くんはあんな言い方しないもん、いつも優しくて、私のこと優先してくれて……!」
彼女がソファーまで移動して腕に縋りつかれる。……志摩のことを何も知らないくせに、勝手に期待して勝手に失望して、それがどうしても許せなくて、引き離そうと肩を掴んだ手に力が篭ってしまう。
「藍くん? ……いたいっ」
ハッとして手を離した。
「っごめん……俺のことは、いくら悪く言ってもいいよ、ガキくせぇでも重くて迷惑でも……だけどさ、あいつの、志摩のことを悪く言うのは、辞めてくんない?」
これ以上失望したくなかった、こんな人間を一度でも好きになってしまった自分に。もう言うことはない、部屋を出ようと立ち上がり玄関に向かう。背中に捨て台詞を浴びせられる。
「……なにそれ、人がせっかく縁戻そうとしてやってんのに……! アンタがなよなよしてんのが悪いんじゃん! そうやって庇いあって、気持ち悪っアンタらホモなの? キモいよ?!」
ドン、と壁を殴って言葉を遮った。振り返ることはせずに肩越しに言葉を放つ。
「二度も同じこと言わせんなよ」
この子の前でこんな声を出したのは初めてだ。
「……あいつを悪く言うのは、辞めろ」
怒りをそのままにした俺の姿に怯えている。ここまで来てやっと自分が言った言葉の重みを理解したようで、気まずそうに俯いている。もう何もかも遅い。スニーカーを履きながら扉を開ける。
「二度とここには来ないから、今までごめんな」